幸福について

最近、工場で働き始めた。今は見習い期間ということで教育係が私についてくれ、一対一で指導をしてくれているのでそのようなことはないのだが、基本的に工場は人と話さない。いや、話す人もいるのだろうが、ほとんど話さなくても仕事をすすめる上で差し支えがない。こういう環境にいるととても心が穏やかでいられる。世の中の不安とかそういった心の変化って他者との関係の中から生まれてくるのだということがよくわかる。いいクルマが欲しいとか、ブランド物の小物が欲しいとかそういう思いって他の人との比較の中から生まれてくるのだと思う。こういった環境にいると機能性だけに極振りすることができる。最近で言えば頭を丸めて坊主にした。体力を使うので汗をかく都合上、坊主のほうが蒸れなくていいのである。

 

業務内容がルーティーンなので、作業をしながら仕事中いろいろなことを考えている。最近の興味は「幸福になるには」。 

作業さえしていればそこそこのお金をもらうことができて、寝るところにも食事にも困らないので、これからなにをしていくのがよいか考えている。空いた時間にゲームをするくらいで趣味といったものもあまりない。どうすればもっと幸福になれるのだろうか。ショーペンハウアーも同じことを考えていたようである。ショーペンハウアー曰く、幸福というのは探すものではなく、現状を幸福であると感じることができるかどうか、心の持ち方が重要であるらしい。お金があれば幸せになれると考える人もいるが、それは部分的にしか正しくないと思う。確かにお金で幸せを買える面はある。お金があれば寝るところに困ったりすることもないし、明日どうやって生活してくか困ることもない。しかし、それはあくまで一定のレベルまでの話であって、多くの日本人にとって普通に働いていれば住居に困ったり、食べものに困ったりすることはないのではないと思う。万が一そのような事態に陥ったとしても、行政の福祉を受けることができる。そのようななかで私達が幸せを掴むには。

昭和的な価値観からいくと、愛する人を見つけて結婚して子供を授かる、それが幸福であるとされていた。「こんにちは赤ちゃん」といった歌が流行することからもわかる。


こんにちは赤ちゃん 梓 みちよ 昭和の歌

そういった価値観がマスコミを始め、いろいろな媒体で流布されていたため、誰もがそれこそが幸せの形であると考えていた。ある意味でそういう世界に生まれることができた人は幸福であると思し、羨ましく思う。幸せだと思うから幸せになるということが真実なのだとすると、外部から刷り込まれたものとは言え、当人たちは幸せだと思うことができたはずだ。だが、令和のようにインターネットが発達して誰もが各々に好きに情報を仕入れることができる時代、そのような統一的な価値観を全国民に流布することができなくなった。未だに中国では国家レベルでの情報統制が行われているようだが、若者を中心に海外の情報に触れる機会が増えているようだ。あるとき、宗教関係の集まりに行ったことがある。毎回聖書を読むのだが、誰もがいかにも幸せそうにしている。自分には合わなかったが、宗教は聖書を通して統一的な価値観をもたせることに成功しているように見える。

考えると幸福になるという考え方自体が幸福から離れる原因のような気がしてくる。人間、適当に生きて時期が来たら適当に死ぬ。それくらいで丁度いいのではないだろうか。